「自由」の意味をはき違えていないか?

 

 近年、インタネットの普及とともに、我々の生活にネッ

トやSNSが染み付いてきている。

 こんなフレーズは疾(と)うに聞き飽きた。もはやインタ

ットが、もう一つの社会とありつつある中で、高校生の

スマホ所有率は90%に割込んでいるとまで聞いた。別にこ

れ自体に問題意識を持とうというのではない。持ちたくて

スマホもっているならば、結構なことだ。しかしこれ

が、持ちたくもないのに、スマホを持っている(持たされ

ている)人がいるとすれば、かわいそうだなと思うだけ

だ。スマホは今や体の拡張機能と明言する意見も聞いた。

これを聞くと、ネットのなかった時代に生まれた世代には

「なんて自由な」とおもう人もいるかもしれない。それは

違う、と思う。学校のクラスですら、クラスラインなるも

のが存在し、ツイッタでも、友達同士で交流があると聞

く。スマホの電源を入れているうは、必ず他人との交流を

強いられる。これがいいと思っている人もいるかもしれな

いが、これを嫌だと思う層も少なからずいるのだ。明らか

なネットによる束縛である。これを「自由」とは呼べな

い。むしろ「不自由」だ。自由という言葉の意味が分かっ

ているだろうか。自由とは、それをしない自由も含めて

「自由」と呼ぶのだ。そうでな自由な不完全な自由だ。自

分の自由を守るために、今一度、何が自分を縛りつけてい

るのか、ここを考えなければならない。

戦争はいけないが、反戦デモみたいなのに

効果があるとは思えない。

 

 

 遠い国で戦争が始まったと聞いた。それ自体にさほど興味はないが、戦争に反発

する「反戦デモ」が世界各国で行われているらしい。もちろん戦争は一刻も早く止

めなければならない。ただ、当該国でもない国で「反戦デモ」を行うのは、あまり

にも不可解だ。非当該国には、戦争を始めた国への制裁や圧力が求められるが、そ

こに個人が反戦デモを行うことに、理解できないのだ。例えば、東京近郊で反戦

モを行ったとして、戦争を始めた人物にとって何か不都合があるだろうか。(いや

ない。)

 むしろ、非当該国までに影響を与えることに、そのような人物は快感を覚えるの

はないか?

 

 そうではない、つまり、戦争が起こったとして、我々個人ができることは、反戦

デモを行うことでも、あるいは、戦争を始めた国の国民を非難したり、差別したり

することでもない。ただ戦争が一刻も早く終わるよう祈ることだ。

残念なことに、個人はこれよりほかにすることがない。

 反戦デモに参加し、戦争という行為に怒ること、これは、感情が優先されている

という点で、むしろ戦争をする心理と同じだと言っていい。平和とは、そんなもの

ではない、平和とはつまりは怒らないこと、論理をもって、感情を押し殺し、穏や

かに、その平和を守ることだ。険しくする顔に平和はやってこない。

 ここを意識しておこう。

空気の読み方を教えよう。

 空気の読み方を教えよう。

_/_/_/_/空気が読めない私_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
 「空気を読め。」これを言われたことがある人は、少なくないだろう。職場とか、学
校とか、いずれにしても、人との交流の場で使われる表現だ。ここで、全体の流れを崩
すような言動だったり、全体が特定の人に伝えたくないことを伝えてしっまたりする
と、それをした人に対する批判として挙がる言葉である。これを必ずしも読解できる
(空気を読める)わけではない。少なくとも、私はそれは難しい。このように、「空気が
読めない。」という人へ向け、(空気が読めない私が私なりの)「空気の読み方」を書き
たい。
 
 
_/_/_/_/空気は読めないもの_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
  空気は基本的に読めないものだ。言葉でさえ完全な伝達というのは難しいのに、記号
化すらされていない状態で、且つ、いつ何時現れるかさえわからない「空気」なるもの
を読み解くことはできないものだといっていい。まず、ここを認識したほうが良い。
 
 
_/_/_/_/では、空気は読めないのか_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
  ただ、どうも少なくとも「空気」を読み、全体のバランスをとりながらやってのける
人はいるようだ、私はこれの習得に苦戦した。ここでは私が私なりの「空気の読み方」
を習得した方法を順序立ててだてて説明したい。これは私の一例に過ぎないから、万人
に共通することではないであろうし、共通する部分があっても同じだけの効果を発揮す
るかは怪しい。
 
 
_/_/_/_/私が「空気の読み方」を獲得した方法_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
 
 
全体を客観視する。
 
  空気を読むということは、何らかのグループに所属していることであろう。そのグル
ープにおける意見の動向を客観視するということ。これは自分が推し進めたい意見や、
逆に通したくない意見など、具体的な感情などすべてを除いて、意見の動向、傾向、
etcを完全に第三者として見通すということ。ここでは必ず客観性をもって見通すとい
うことが必要になる。
 
 
意見をすべて疑う。
 
  ①が済んだ後は、解析した意見をすべて疑ってみるとよい。特に、多い意見や、人気
のある意見(意見に人気も何もないと思うが)にこれを行うと効果があると考える。これ
を行うことで、すべての意見を客観視できる、と考える。これにより、全体に流されな
い判断を行うことができる、そうすると自ずと空気を読み、そしてその空気に流されな
い力を養うことができる。私なりの空気の読み方の肝はここにあると考える。人は自己
判断を避け、当たり障りのないように行動する。これは空気を読むとは違う、空気に流
されることになる。これではせっかく読んだ「空気」も何も意味をなさないこととな
る。これは空気を読まないのとなんら差異がない、と考える。
 
 つまり、空気に流されない、このために空気を読む。ということ。
 
 
流されない意見を持つ。
 
 すべての意見を疑うと、大多数の意見にもデメリットが現れるだろうし、少数の意見に
も、大多数の意見を超えるメリットも現れてくると思う。ここで初めて自分の意見を確
立するとよい。もちろん既存の意見を選ぶもよいし、自分で新たな考えをするのもよ
い。いずれにしても、ただ流されるだけのままの意見ではよくない。自分の意見を持つ
だけでも、空気に流されず、少しなりとも満足できる結果を生むと、私は信じる。
 
 
 
_/_/_/_/結論_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
 世間一般にいう、「空気を読む」というのは、およそその空気に流されることを言う
ようだ。ただ空気に流されることは、空気を読まないでもできることだ。空気を読むこ
とができるならば、その空気に流されず、自分の意見を持つことが、その能力に見合っ
た行動だといえるだろう。